Tendo

建築家の個性と
高い技術の融合

天童木工が日本でいち早く実用化させた成形合板
この技術の可能性を認めた才能溢れるデザイナーや建築家たちの“創造力”は
工場で働く職人たちのプライドと探究心を刺激してきました。
両者の個性が共鳴した瞬間は、成形合板の技術がブレークスルーする瞬間です。

Isamu Kenmochi

剣持 勇氏は、天童木工の歴史を語る上で欠くことのできない
関係の深かったデザイナーです。その出会いは戦前まで遡ります。
1932年、氏は日本初の国立デザイン指導機関だった
工芸指導所に入所し、工業デザインや家具デザインに没頭していました。
後に天童木工に迎えられる乾 三郎も入所。
「デザインの剣持」と「成形合板の乾」との出会いが
以降も長く続く天童木工との連携に繋がります。
このようにして、天童木工は氏から成形合板技術の指導を受け
数々の名作を形にすることができたのです。

例えば、ゴルフ場のクラブハウス用に作られた
3次元カーブが美しいチェア[S-5009]や京都国際会議場の
ロビー用に作られたイージーチェア[S-7008]などは
後に規格品として販売され、現在も高い人気を誇っています。
剣持氏のシリーズの中でも一際異彩を放つ柏戸イス[S-7165]は
熱海ガーデンホテルのロビー用にデザインされました。その名は、
山形県出身の力士、柏戸関の横綱昇進を記念してこの椅子が
贈呈されたことにちなんで付けられました。成形合板を得意とする
天童木工にあって、無垢材のみで作られたこの作品は異色の存在です。
剣持 勇

1912年、東京生まれ。1932年に東京高等工芸学校木材工芸科を卒業後、商工省の工芸指導所に入所。翌年、来日したドイツ人の建築家ブルーノ・タウト氏のもとで椅子などの「規範原型」の研究を行う。1952年には、渡辺力氏や柳 宗理氏らと共に、日本インダストリアルデザイナー協会の設立に協力。1955年に剣持デザイン研究所を設立する。日本を代表する建築家、丹下健三氏とのコラボレーションも多く、柏戸イスの熱海ガーデンホテルや1964年天童木工が観客席を制作した国立代々木競技場の貴賓室もこのコンビによるもの。

Sori Yanagi

天童木工の名前を知らなくても
バタフライスツール[S-0521]は知っている、という方も多いでしょう。
デザインを考案した柳 宗理氏は、海外でも実力を認められる
日本の工業デザインの礎を築いた一人です。
戦後、イームズの成形合板技術を目の当たりにした柳氏と
当時、仙台にあった工芸指導所で成形合板を研究し
後に天童木工に入社する乾 三郎との出会いが
この美しいスツールを誕生させるきっかけとなりました。
同じ形の2枚の成形合板を

真鍮金具でジョイントしたシンプルな構造ですが
図面に頼らず、模型を作って自分の感覚に頼りながらデザインする
柳氏の手のぬくもりを感じられる柔らかい曲線が魅力です。
合板の厚さはわずか7mm。この薄さは、
1mm程度にスライスした単板の木目方向が交差するように
一枚ずつ重ね合わせ、強度を増すことで実現しています。
このほか、座面の下で交差したフレーム構造が特徴的な
スタッキングチェア[T-3035]も
シンプルな構造と美しさが融合した柳氏らしいデザインです。
柳 宗理

1915年に東京に生まれる。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、1942年に坂倉準三建築研究所に入社。1950年に財団法人柳工業デザイン研究所を設立する。その後バタフライスツールの原型をデザインし、それから数年間の研究開発を経て、1956年に銀座・松屋で開催された柳工業デザイン研究会展で発表された。1958年には、バタフライスツールがニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定されている。1977年、父である柳 宗悦氏の設立した日本民藝館の館長に就任。2002年には文化功労賞を受賞。

Bruno Mathsson

スウェーデンを代表する建築家のブルーノ・マットソン氏は
天童木工が初めて契約した外国人デザイナーです。
氏と天童木工の出会いは、1974年
当時、六本木にあったスウェーデン・センターで開催された
日本初の個展「ブルーノ・マットソン展」がきっかけでした。
このとき初来日した氏は、日本人のために
自らデザインしたラフな図面やスケッチを持って
山形の天童木工本社に来てくれたのです。
椅子を引きずっても床に傷がつかないよう

脚の底辺面積を大きく取った「床摺り」をつけた構造は
畳で暮らす日本の生活様式を勉強するなど
かなりの“日本通”だったマットソン氏ならではの提案でした。
氏がデザインした作品は、M Seriesとして発売されていますが
中でも代表的なのはハイバックチェア[M-0562]です。
前後の脚が「床摺り」によって繋がっている“閉じた脚”は
安定した構造となり、フレームを細くすることを可能にしました。
この細身のフレームをキャンバス地で包んでいるため
ハンモックのように体を受け止める座り心地と軽さが特徴です。
ブルーノ・マットソン

1907年、スウェーデン南部のヴァルナモで、家具職人の息子として誕生。幼い頃から家具作りを学び、家具職人として経験を積んだ後、自らの工房を作り多くの名作を生み出した。1934年には代表作となるEVAを、1968年にはカーリン・チェアを発表。1981年、スウェーデン政府よりプロフェッサーの称号を受けた。彼がデザインした家具は、スウェディッシュ・モダンの傑作として憧れの的となっている。1974年に天童を訪れた際、畳のある旅館に泊まることを熱望したというエピソードが残っている。

Kenzo Tange

天童木工は家庭向けの家具だけでなく、官公庁やホテルなど
業務用となるコントラクト家具も数多く手掛けています。
コントラクト家具は、デザイナーがインテリアを担当する場合と
建築家自らその建築にあった家具をデザインする場合があります。
世界的に活躍した建築家である丹下健三氏との共演は
愛媛県民会館の客席用に成形合板で製造した
1400脚から始まります。1953年のことでした。
その後、静岡県体育館(1958年)や東京オリンピックの
会場となる国立代々木屋内総合競技場(1964年)など

氏の手掛けた大プロジェクトに成形合板の椅子を納入しました。
日本における成形合板の真価を知らしめたのは
丹下氏であると言っても過言ではありません。
大プロジェクトで何千脚と使われるシンプルな椅子と異なり
1枚の成形合板から大胆で立体的なフォルムをもった
ボリューム感あふれる椅子があります。
それが丹下氏自身がデザインしたイージーチェア[T-7304]です。
まるで抱きつくように背面から伸びる独特なアームの形状から
通称「ダッコちゃんイス」と呼ばれています。
丹下 健三

1913年、大阪府に生まれる。1938年に東京帝国大学(現、東京大学)工学部建築学科を卒業。ル・コルビュジェに傾倒し、その教え子である前川國男の建築事務所に入る。1941年に東京大学大学院に入学し、1946年から1974年まで母校で教鞭を執り「丹下研究室」を主催。磯崎 新氏や黒川紀章氏など、多くの優れた人材を育成した。天童木工と関わりの深いデザイナーの剣持勇氏とのコンビで、国立代々木競技場など数多くのビッグプロジェクトを手掛けた。丹下氏が手掛けた東京都庁では、議場家具を始めとした数多くの家具を天童木工が担当した。

Arata Isozaki

正面から見ると直線的ですが、少し角度を変えると
背もたれから後脚にかけて、うねるような特徴的な曲線が現れます。
アメリカの女優、マリリン・モンローのボディラインを参考に
描き出された「モンローカーブ」と呼ばれるその曲線こそ
モンローチェア[S-7122]最大の見せ場と言えるでしょう。
デザインした磯崎 新氏は、群馬県立美術館や
ロサンゼルス近代美術館、水戸芸術館などを
手掛けた世界的に有名な建築家です。
モンローチェアは、氏が設計し1974年に完成した

九州市立美術館の会議室に初めて使用されました。
この椅子の開発にあたり、氏が最初に描いたのは
わずか親指サイズのスケッチだったそうです。
そこから天童木工の職人が設計図を起こし、磯崎氏が修正する。
これを何度も何度も繰り返したという、逸話が残っています。
また美しい曲線は、部分によって厚みを変えた
「不等厚(ふとうあつ)成形合板」という
高度な技術が使われています。
製品は塗装で隠れていますが、最も厚みのあるカーブから
徐々に細くなる積層断面の美しさは、究極の職人技の証です。
磯崎 新

1931年、大分県大分市に生まれる。東京大学工学部建築学科を卒業。同大学数物系大学院建築学博士課程修了。1963年に磯崎新アトリエを設立。代表的な建築作品は、大分県中央図書館(現アートプラザ:1966年、大分)や群馬県立近代美術館(1974年、群馬)、バルセロナ市オリンピック・スポーツホール(1990年、バルセロナ)、秋吉台国際芸術村(1998年、山口)など。これら氏が手掛けた多くの建築には、モンローチェアが使われるほか、秋吉台国際芸術村には、ローバックタイプのモンローチェアが導入されている。

Kisho Kurokawa

一定の品質と高いデザイン再現性を備えながら
量産も可能な成形合板を得意とする天童木工は
コントラクト家具という分野で、丹下健三氏、磯崎 新氏など
日本を代表する建築家とのコラボレーションを実現してきました。
もう一人、忘れてならない建築家がいます。黒川紀章氏です。
氏との最初の出会いは、黒川氏が1967年に設計した
天童市の隣にある寒河江市の市庁舎です。
天童木工は市庁舎の家具を担当しましたが
家具のデザインは黒川氏ではありませんでした。

本格的な共演が実現したのは
1984年、氏が手掛けた国立文楽劇場でのことです。
国立文楽劇場は、文楽が興った江戸時代に使われていた竹矢来や
唐破風といった伝統的なシンボルが抽象化されて使われています。
ロビーで使われる安楽イス[T-7160]や長イス[T-7161]は
そのイメージをさらに引き立てるためにデザインされています。
ロビーという「洋」の空間で、「和」を意識させるデザイン。
格調漂う重厚な黒、格子をイメージさせるディティール、
こだわりの塗り仕上げなど、随所に和の美しさが表れています。
黒川 紀章

1934年、名古屋生まれ。1957年に京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院修士課程入学。ここで当時「丹下研究室」を主催していた丹下健三氏に会う。1962年、株式会社黒川紀章建築都市設計事務所を設立。1964年に東京大学大学院博士課程を修了。1969年には、株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立する。代表的な建築に、寒河江市庁舎(1967年、山形)、中銀カプセルタワービル(1972年)、国立民族博物館(1977年)、クアラルンプール新国際空港(1977、マレーシア)などがある。

時を超えて愛され続ける、クリエイターとのコラボレーション家具

成形合板の可能性を認めた、才能あふれるクリエイターたちの創造力は、
工場で働く職人たちのプライドと探究心を刺激してきました。
ほかにも、多くのクリエイターたちが天童木工の歴史を刻んできました。

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